2015年2月26日木曜日

日常のこと

昨日、チャンピオンズリーグでバルサ対マンチェスターCの試合が行われました。
結果はスアレスのゴールで2-1とバルサが勝利しましたが、おとといの授業では、
明日(昨日)の試合をテレビ(もしくはバル)で見るように言われ、今日の授業ではその中で実況されたいくつかの文章をテーマにスペイン語を学ぶ、というものでした。
今日は当然のように新聞に昨日の結果が載っています。
ここはバルセロナですから、当たり前ですがバルサの話がトップページです。

昔聞いた言葉。
イタリア人(例えばローマに住んでいれば)は子供の頃から、ミケランジェロをはじめ世界的に有名な作品の中で育っている。
例えば日本なら、寺や神社、相撲といった日本の文化の中で育っています。
バルセロナには日常的にバルサの話が、マドリッドには当然ながら日常にその話があります。

ここでは世界トップクラスのバルサの試合やその結果が「日常」です。ヨーロッパにはバルサに限らず世界トップクラスのチームが多々ありますが、それはそれぞれの地域で「日常的」に活動しています。
ここでは残念ながら「フットボールにおいては」日本の話はほとんど聞けません。政治やその他の文化などに関しては聞くことができても、こと「サッカー」に関してはほぼ皆無なのではないでしょうか。

ヨーロッパの一流の選手や監督が、アジアであまり仕事をしたがらないのがよく分かります。
それはある意味、第一線から外れることになります。アギーレが解任になったことも、多分ここでは誰も知らないと思います。
そう考えるとまだまだフットボールにおいては日本は後進国ですね。さらに最近はアジアでも勝てなくなってきています。
日本のレベルが下がったわけではなく、アジアのその他の国々の取り組みや質が上がってきました。もう少ししたら、日本がワールドカップに出れない時も来るかと思います。

僕が住んでいた県にも日本の「プロチーム」がありますが、(何をもってプロというのか僕は知りません。一円でもサラリーをもらえば、それは日本人の感覚としてProfecionalにプレーしなければならない僕は思いますが、プレーどころかその他の部分も含めてそれはプロフェッショナルでしょうか。)
それは、地域に根差して、ファンに人生とアイデンティティを与えていますか?
そもそも、選手自身が「jugador profecional」を自覚しているのでしょうか。
若い選手たちはなかなか自身の経験値や知識の乏しさから、自分の職業を深く考えることができないにしても、それを指導する立場の人間は当然、思慮深く「その職業の意味」を伝えるはずです。

例え選手は「サッカーだけ」に特化していても「それを指導する立場の人間は実技だけでなく多くの知識や教養を」身につけていなければなりません。
今や当たり前ですが、指導者で「スポーツしかできないし知りません」というのはナンセンスです。昔みたいな「体育会系だけ」の指導者は今はいないと思います。

最近の授業で考えた「¿Fútbol es espectáculo o deporte?」
僕が住んでいた県では「espectáculo」として成立してますかね。肝心なとこで「はっきりしていない」と思います。フィロソフィの問題です。
それがはっきりすればストラテジーは自然と決まってきます。たとえそれで上手く行かなくても、それはフィロソフィなので、なんの問題もありません。

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