2015年11月6日金曜日

思考するのは言語

コーチングスクールも、もうすぐ約2か月になりレベル1の授業が半分くらい終わりました。
3か月間毎日学校に通いサッカーの勉強をするということは、楽しくもありますが苦労も多々あります。はっきり言ってMuy duro です。

写真は学校にある人工芝のグランドです。週に数回プラクティカがあります。

今日もテストがありましたが、現在は8科目のテストが終わり、6科目は合格、残りはまだ発表されていません。多分大丈夫だと思いますが。
先生はカステジャーノで話してくれるのですがテキストはカタラン語、試験までにカタラン語→スペイン語→日本語と2回翻訳しなければなりません。
カタラン語で書いてあってもそれを日本語に訳したほうが早いと思われそうですが、一度スペイン語に訳した方が僕は分かり易いです。
もうすぐ1年経つため、もう結構ぺらぺらでしょ?と思われるかもしれませんが、僕にとって言語の習得は簡単ではありませんね。1年ではペラペラにはならない、というのが結論です。
ただ、毎日難しいスペイン語に触れるので免疫はできてきました。長文もなんとなく理解できます。
少しづつ成長ですね。話は変わって...

スペインのサッカーを学ぶ中で、日本と大きく違うと感じるのは「サッカーが細かく言語化されている」という点です。イメージとして、共通言語が整理されているのでその、基本的なことを学んでいるどうしなら、その共通言語で話せば状況が理解できるとも言えます。

分かり易く言うと、例えば、試合でどんなミスが起き、何が問題だったのか。これを日本にあるサッカーの体系と言語で説明するとなると、かなり分かりにくいものになります。しかし、スペインの体系付けられた言語の中で語って行くと、共通言語を持った人には分かり易く伝わります。

その問題はどの局面で起こったか。その局面で行うことは何か。その中にちりばめられている戦術コンセプトは何か。さらにその中のグループ、もしくは個人的な問題か。そしてそれが選手のテクニック、もしくは戦術の中にあるのか。それが個人的な問題と判断とした場合、PAD+Eのどこに問題があるのか。A=アナリシスの場合、なぜ彼は分析を誤ったのか。
もしくは「そもそも全体のデザインの話し」なのか。

というように、体系がありその共通言語を用いることで複雑なサッカーというスポーツが鮮明になってきます。

サッカーの定義、もしくは本質的な要素として、「複雑性」「カオス」などと表現した場合、そしてそこに分析や解決方法を見出そうとするなら、そこに何らかの秩序を見つけるために体系付けや言語化が必要になってきます。

複雑でカオスなサッカーを理解するには「サッカーをそのままを捉えつつも、サッカーの体系付けや現象の言語化」が、理解することにつながります。

僕が何故「体系付けや言語化」ということにこだわるかというと、それは「思考」の問題につながるからです。
若い頃読んだヴィトゲンシュタインという哲学者はそれまでの哲学的問題を解決したと言われました。(生半可の知識ですが)

「思考の限界は言葉の限界である」

僕らが理解、もしくは創造できるものは全て言葉によって制約を受ける。言葉の外側の世界を理解することはできない。

地球の外には何があるかがまだ分からない時代には、それを語ることができませんでした。科学によって解明されてゆく中で、様々な事象が言葉によって理解されだします。
しかし、宇宙の外側になにがあるかをまだ知ることはできません。言語化できないので、表現することはできず、またそれは僕たちにとって、存在しないも同然です。

これを拡大解釈すると、その人の世界はその人の「言葉」(ボキャブラリー)によって決まるとも言えるかもしれません。


簡単な例えでは、スペインのサッカー用語にある「サリーダ・デ・バロン」。これは日本にはない概念・表現で、この言葉を知らなければそれが何なのか、もしくはサッカーのどの局面で行われるものなのか分かりません。それを日本語にしても「ボールの出口」ですからなおさらよく分かりません。この言葉の概念を持っていない人にはこの事象は存在しないものになります。

逆に言えば、言語化されることで、どんどん世界が広がり鮮明になって行くとも言えます。より詳細まで語ることができ、様々なことを言葉で表現できるようになってきます。

日本とスペインのサッカーの違いは、この「体系付けと言語化」に大きな差があるように感じます。
簡単な例では、日本で言うマークを外す動きはスペインで「Desmarque デスマルケ」と表現されます。この「デスマルケ」には2つのパターンがあります。「desmarque apoyoとdesmarque ruptura」、同じマークを外す動きでも意味は大きく異なります。
「romper=こわす」も、このような表現や同じ意味合いを持つサッカー言語を日本では聞いたことがありませんでした。

日本以上にサッカーの言葉が多いスペインがより深くサッカーを理解していると感じています。

物事を理解するのは「言語」で、その限界が世界の限界だと思います。

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