2015年3月21日土曜日

たかがサッカー...ではない

最近バルセロナは日中はとても暖かくなってきましたが、ここ数日また少し寒くなってます。春の兆しを感じますが、僕らはまだ冬にいるようです。
3月末のセマナサンタの頃にはもっと春らしい雰囲気が感じられることを期待してます。
日本は今は春休みでしょうか。卒業式がもう終わった頃で、新年度に向けて新たな気持ちに切り替えている段階かと思います。

ここ数年のテーマですが、サッカーをすることの根本的な
意義を考えています。何故サッカーをするのか、どんな価値があるのか、クラブ、指導者は何を提供できるか。
指導者のプロフェッショナルな仕事とは何か?様々なことが頭をよぎります。

レアッシでは、育成年代において、人間教育的な部分にも力を入れているのは「フットボール」がただのスポーツではなく、使い方によっては人間の成長、もしくは人生に新たな価値を付加できるものであることをスタッフ全員が認識しているからだと思います。

僕らが提供したいのは「ただのサッカーチームではない」のです。

勿論、ハイレベルな選手を輩出することはもっとも重要な課題の一つですが、ほぼすべての選手がプロにはなれない現状を考えると、そこに教育的価値を付加するのはしごく当然です。
まさにそれこそが「フットボールをする意味」かもしれません。

しかし、だからといってハイレベルを目指す際の「シビアな競争」から目を背けることもできません。僕個人の感想としては、海外の選手たちは日本で考えるよりももっと厳しい現実の中にいて、その中でプロになることがどういうことかを理解しているように感じます。

「教育的側面」
僕はずっと、このような考えは「育成年代の選手たち」のみに関係することだと考えてきましたが、最近はそれがプロ選手でも同様であるように感じます。

プロ選手としてプレーするには、能力が高いだけでなく、「プロとしての仕事」が求められます。試合やニュースは国境を越えて配信されるだけでなく、一流の選手にはそれなりの人格をも要求される時代ではないでしょうか。
時折、例え海外で「悪童」的な選手が人気を得たとしても、日本的価値観ではあまり受け入れられないように思います。例えばイギリス人と日本人では求めるものが違います。

これからは「サッカーが上手いだけ」では社会に通用しなくなるのではないでしょうか。
つまり「サッカーだけが上手い選手」ではなく「その他の部分でも社会で通用するスキルを持っている選手」こそが今後のサッカー界で求められる選手像かと思います。

「サッカーが上手いだけではなく、人間的にも目標、もしくは尊敬できる」ような人間こそが、「プロの世界でプレーするに値する」、存在です。
そう考えると、サッカー選手になったとしても、なれなかったとして、「人間的な部分、もしくは知性を伸ばす」ことは必要不可欠です。

根本的な原理は「他者との関係性の中でしか個は成り立たない」ということ。認識されて初めて存在します。社会の中で生きるとは、まさに他者との関係性を構築することです。当たり前ですが否が応でも「適応」しなければなりません。

そういう中で、僕ら育成年代に関わる指導者はいろんなことを考えなければなりません。

今の僕にはなかなか上手くまとめる力がありませんが、今後もこういう問題についてもっと深く考えてみたいと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿