バルセロナに来て、そしてここに住むことによって、特に感じるのは自分が人生の中でとても貴重な時間を過ごしているということです。学生時代(とても若い頃)には感じることができなかった「人生の短さ」や「本当の意味での1度きりの人生」という言葉。
当然のように若い時代には、この人生は恒久的に続くと感じていましたが、そうではないことが理解できてくるのも年齢や経験のおかげでしょうか。
人生は一度しかないことは誰でも先天的に認識しています。しかしそれをなかなか実感できないのも事実です。「何を成すか」「どのように生きるか」
日本にいても素晴らしいことはたくさんあります。いろんな人と出会い、貴重な経験もたくさんできます。が、やはり海外へ出ることも日本での経験に劣らず面白いことが多々あると思います。
そこには日本では経験できないことがたくさんあり、勿論良い面も悪い面もありますが、それも含めてすべて素晴らしい経験です。
日本以外の地に長く住むことは本当に面白いことだと思います。しかもそれらを単なる感想ではなく、歴史や文化の違いとして学べば、本当に素晴らしい経験と知識になります。
日本は島国もしくはほぼ単一民族で構成されている国なので、そこにいると感じることができませんが、外国へ、特に人種が入り混じっている国へ行くと、その国が抱えている問題や、日々の日本では経験できない出来事や感覚が経験できます。日本では考えもしなかった、考える機会がなかったような問題を考える良い機会にもなります。
他にもいろんなことが体験(経験)できます。
僕自身はまだ東洋人として「差別」を受けた経験はありませんが、多分これから出てくるかもしれません。僕としてはそういうことも含めて経験したいと思っています。
先日スペイン語の授業中に面白い経験をしました。(僕としてはとても貴重な体験でした)
あるクラスメイトがあまりにもうるさかったので注意し(というか文句を言い)ました。
(そのうるささは悪気がないことは感じていましたし、文化や習慣の違いであることは理解していました。今は彼らとは何の問題もありません。)
本当はスペイン語で言いたかったのですが、上手く伝えられなかったので、
「¿Tienes diccionario?(辞書を持ってるか?)
No puedo decir bien en español, ahora hablo en japonés a ti,¡traduce!(スペイン語で上手く言えないから、今から日本語で話すから訳せ!)
¡○○○○○!(ここは日本語)
(日本語で言い終わった後に勿論伝わるはずがない)
¿Entiendes?(分かったか?)
と言うと、当然日本人はこのクラスに僕しかいないのでみんな「きょとん」とし、少し微笑みながらも苦笑いの状態で「kazu,今何て言ったの?」と聞き返してきました。先生も「何を言ったんだこの日本人は?(笑)」といった表情でしたが、みんな僕が怒っているのは察したようでした。(笑)
勿論、それ以後はクラスメイトとは何の問題もありませんが、スペイン語で言えなかったのは悔いが残ります。スペイン語で言えればみんなにも勉強になったのに。ただ、これも日本ではありえない貴重な経験です。
こちらに来て感じるのは「自分は日本人だ」ということ。当然、アイデンティティを強く意識してしまいます。「アジア人に友好的な人も、差別的な人も様々な人がいる」ということを感じます。
ただ、それは「コミュニケーションの問題が大きい」かもしれません。
こちらに来た当初感じた「店員の無愛想さ」も少しづつ変化しています。
スペイン語の授業後、僕がよく行くパン屋の店員さんは、初めの1、2回はとても無愛想でしたが、確か3回目頃、「いろいろ会話してみよう」と思って、「スペインに来てまだ上手く喋れないから、何か僕のスペイン語に問題があったら教えて」と言った日以降、いつも笑顔で接客してくれます。ピザの具材をしつこく聞く僕に多分、変な日本人がまた来た(笑)と思っているのかもしれません。
コミュニケーション能力の問題を考えると、海外で感じるそれらは、実は差別や文化の違いなどの大きな問題ではなく、単なる「伝達能力の問題」かもしれません。
上手く喋れた時は得に感じませんが、伝わらない時には特に孤独感を感じます。
「言語で理解する」
よく考えると、これは大きな問題かもしれません。僕らは「常に言語に縛られている」のですから「言語を超える」ことはできません。
言語を「理解できる世界の限界」と定義すると、なるほど、コミュニケーションにも影響が出るのは当然です。
自分が理解する言語の限界を超えていれば、そこに「ある種の憧れや、不信感、期待や懸念」を抱くのは当然かもしれません。
話はそれましたが、「言語を使ったコミュニケーション」はとても大きな問題です。
それ一つで「世界を広げたり」「誤解を生んだり」「共感したり」、様々な可能性を秘めています。
言えるのは、複数の言語間では単一の言語間では感じられない「異質なもの」が混じり合って、そこに知的好奇心を刺激するものがあるということでしょうか。
すごく抽象的でややこしい表現ですが、言葉で表現するとそんな感じでしょうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿