ここ数年、僕の中で常に意識されているのが「フラクタル」という言葉です。
僕の数学的な知識は素人同然でかなり浅いのですが、この言葉を使ってサッカーのある側面を考えることもできるかもしれません。
もともとサッカーにおいてこの言葉を知ったのは「戦術的ピリオダイゼーション理論」です。過去にモウリーニョが採用していた(今もかは知りません)のを、日本に広く普及させたのは村松尚登氏(現水戸)だと認識しています。
この中でサッカーの根本的な定義として「カオス」と「フラクタル」という言葉が用いられています。省略しますが、チーム全体を見てもグループまたは個人を見てもそこにはフラクタルな性質が存在するといった感じのものです。(かなり省略してすいません。興味がある方は書籍をご覧下さい)
僕はこれを「相似」という意味で次のように捉えています。
例)大きな正三角形とそれより小さな正三角形がるあるとします。どちらもスケールは異なり、一辺の長さも面積も異なります。しかしそれらは「同じ本質を持った図形」だと言えます。それらを「正三角形たらしめる要素」は
①3つの辺で構成されている
②それぞれの角度が等しい
etc...
もしこれらの要素が異なれば2つの図形は同じではなくなります。本質が変わればそれは別のものになります。
これをサッカーの時間軸(プロのサッカーと育成年代のサッカー)に置き換えるとそれらはスケールこそ違えど、本質的には同じものが存在することになります。
つまり大人(プロ)でも子ども(低年齢)でもそこにはサッカーの本質が存在している。その本質をそぎ落とすとそれは異質のものになってしまう(サッカーではなくなる)と考えています。
※僕の場合、「サッカーとは大人も子どもも同じ本質を持っているからこそそれらを同じサッカーと呼べぶことができる」もしくは「それらをサッカーと呼ぶなら同じ本質が内在している」という定義を前提としています。
もし前提が変われば、また違う考えもできます。
大人と子供は全く別だ、という考えもあると思います。その場合、「サッカー」というものの定義が変わってきますね。
話しはそれましたが、そう定義した時に問題となるのが「サッカーの本質とは何か?」ということです。いろいろな要素が考えられますが、例えば
a:サッカーは常に相手との勝ち負けを含んだ競争である。
b:それは選手だけで成立するものではなく、見ている観衆をも巻き込んだ真剣勝負のドラマである。
c:練習や試合(競争)を通じて人間的成長を促すものである。
etc...
などなど様々な要素が考えられます。
繰り返しますが、何らかの正解があるわけでなく、それぞれがどのように定義するかによって変わります。
上記のa~cは僕が考える「本質」の例です。そしてその本質を失うと僕が定義するサッカーではなくなります。そして更に「大人でも子どもでもフラクタルな関係である」と定義すると、どの年代のサッカーであれ、それをサッカーと呼ぶには「同じ本質」が内在することになります。
僕が上記のように定義した場合、もし「低い年代の子供の試合が勝ち負けにこだわらない」とすれば、それはサッカーではなくなります。
何故なら僕の定義の場合、「サッカーとは年齢を問わずフラクタルな関係にあり、その本質の一つにaがある」からです。
また、bにおいても時々プロの試合でもある罰としての「無観客試合」。これが「罰」になる理由としては、サッカーの本質を大きくそぎ落とすからかもしれません。
cにおいては、育成年代のみならず、三浦選手のような大ベテランのプロサッカー選手でも、努力することで人間的にも更に成長している(僕が言うのはおこがましいですが)ケースもあります。特にサッカー選手の寿命は短く、ほとんどが20代(会社員ならまだまだ若い年代)ということを考えればプロであっても社会を知り「仕事とは何かといったようなことを学んだりし、人間的な成長を促すものであるともいえます。
他にも「サッカーには必ず戦術がある」ことも本質の一部だと定義しています。その場合、例え小学1年生でも極めて単純なものかもしれませんが「戦術」が存在します。
※「戦術」の定義については後日。
そういう意味では、大人でも子どもでも「同じサッカーというスポーツを行う」には「同じ本質」が内在されていると考えられます。
とはいえ、プロと育成では異なる部分があるのもまた事実です。
これもどのように考えるかによりますが。
例えば、
多分最近の日本の風潮ですが育成年代(特にジュニア)での応援では選手もサポーターも「審判へのクレーム」は禁止されています。しかし、プロではあたり前です。スペインはもっとひどいですかね。(笑)
しかし、フラクタル性とサッカーの本質として「観衆がわいわいやって試合に緊張感を与えたり、盛り上げることも本質の一部」と定義すれば、それらを一切禁止した場合、それはフラクタルにはなりません。つまりサッカーではなくなってしまいます。
サッカーの本質を保つために「育成年代でも大人と同じようにどんどん審判にクレームを言ってもよい」かというと、また違う話になります。
そこには「成長段階にある育成年代の選手」に対しての「教育的観点」も加味されます。
また、日本なら「日本人の文化や気質」というものも考慮する必要もあるかもしれません。
しかし、応援もせずずっと黙ってみているのも不自然だし、「サッカーの本質」と「教育的観点」とのせめぎ合いの中に何らかの答えを見つけなければなりません。
おそらく「程度の問題」もあると思います。
子どもの試合を観ていると「味方・相手を問わず選手や審判にも何か言いたくなる気持ち」も分かりますが、応援スタンスは「そのチームのサポーターとしての振る舞い」にもかかわる問題です。
育成年代ではクラブのコンセプトに従うべき(無理な場合は移籍を考える)かもしれませんし、日本の観客がワールドカップで試合後にごみを拾ったような「日本のサポーターである」というアイデンティティを表現した行為もあるかもしれません。
しかし、それをルール化するとそれもまた違和感があります。
※「ルールと曖昧さ」についてはまた後日。
このように考えると「応援」一つとっても難し問題ですね。しかし、ここで思考停止してはいけません。さらに深く考えていくことでより良い答えがあるかもしれませんし、ないかもしれません。
話しは大きくそれましたが、「大人のサッカーと子供サッカーのフラクタル性」についてここ数年いろいろ考えています。
まだまだ実験段階ですが、今後も更に深く掘り下げて考えてみたいと思います。
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